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前川國男と福岡市美術館

生きていたら会ってみたかった建築家。前川國男は私にとってそういう存在です。1905年に生まれ、1986年に81歳で亡くなるまで、現役の建築家でした。音楽、とくにオペラが好きで、たくさんの映画に触れ、車はジャグア(ジャガーと読んではいけなかった)を愛し、フランス語と英語に堪能、そして大変な健啖家で美味しいものに目がなかったそうです。晩年はパーキンソン氏病で身体が不自由になりつつも、設計をつづけ、建物に足を運んだ生涯でした。

1928年東京帝国大学の卒業式の日にパリへと発ち、近代建築の祖、ル・コルビュジエの事務所で働き始めました。2年後に帰国、東京レーモンド事務所で働き、1935年に正式に事務所を開設しました。戦争が終わるまでの10年間は苦労の多い時代でした。亡くなるまでの半世紀に数多くの優れた弟子を排出しましたが、戦後の日本建築界を代表する丹下健三もその一人です。

事務所では表向き「先生」と呼ばれていても、その人柄から所員の間では「大将」と、所長室の扉は「虎ノ門」と呼ばれていたそうです。虎ノ門から大将が出てくると製図室にさっと緊張感が漂うなか、一人一人所員の製図台を巡り、機嫌の良い時はオペラを口ずさみながら、所員が描く図面のうえに何枚もスケッチを重ねたといいます。

全国で美術館や博物館など公共建築を手がけましたが、1979年に竣工した、大濠公園の緑の中に佇む福岡市美術館もそのひとつです。同じころに東京都美術館、熊本県立美術館、山梨県立美術館などを完成させています。ル・コルビュジエの弟子であり近代建築の旗手とされた前川氏ですが、この時代には近代建築の機能性や合理性だけではなく、もっと自然と寄り添い、手の痕跡が残るような建築のありかたを追っていたと思います。

それを代表するのが打ち込みタイルと呼ばれる手法です。コンクリートの壁にお化粧的にタイルを貼るのではなく、コンクリートを流し込む型枠にタイルを組み込んでおき、二つが一体になるようにつくる工法です。福岡市美術館の壁を見ればわかるのですが、タイルの何枚毎に、型枠を支えるための穴が開いているのはその工法の証です。

用いられたレンガ調のタイルには焼きむらがあって、一枚一枚が微妙に異なる色を持っています。色の表現に関しても前川氏はかなりのこだわりがあったようで、皇居に面する東京海上ビルのタイルの色は「カチカチ山のタヌキの火傷の色」と指示して担当者を困らせました。ある劇場の椅子の張り地の色については「女の人が寒空に立っていたため唇が少し紫色になった時のようなワインカラー」と指示した事も。福岡市美術館のタイルも、よく見ると茶色という一言では表現できない複雑な色が混在しています。

福岡市美術館のもうひとつの特徴は入り口が2つあり、その一つが2階に設けられていることです。公園から敷地内に入るとゆったりとしたテラスが少しずつ高くなりながら連続します。来訪者はそれを辿るうちに歩く方向が変わり、テラスに置かれた彫刻に出会い、いつの間にか2階の入り口に到達するのです。散策路を意味するエスプラナードと呼ばれ、前川氏が得意とした空間設計です。

福岡市美術館より4年早く建った東京都美術館も前川氏の設計で、2010年から2年間かけて、設備の更新などを含む全面改修が行われました。長年東京都民に親しまれた佇まいを後世に継承する方針のもと、増床部の外壁の打ち込みタイルや床タイルに、オリジナルの形状、色合い、工法を忠実に再現しています。当時と同じ土や窯があるわけではないので、同じ風合いの再現は、なかなかの苦労があったようです。

福岡市美術館も2016年9月から2年半かけての改修工事が始まります。設備の更新やカフェの新設が予定されていて、その姿を見るのが今から楽しみです。

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