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沈黙の「都市」臓器

東京からUターン独立してまもなく、toto建築マップ北九州を片手に、いくつかの建築を見て回った。レーモンドの大谷体育館、池原義郎のホテル、下関の水上警察署や、旧唐戸市場、それぞれのことごとくが、あるべき場所に見当たらなかった。マップに特筆された建築がその刊行からわずか数年のうちに、姿を消すことなど想像しなかったから、空っぽの敷地、違う建物が平然と在る現場に呆然とした。若造なりの強い危惧、衝撃、疑問から小さな運動を企て、学生と小冊子にまとめたりもした。(ノコル建築とは~北九州+下関、2004)

建築はもっと多くの人々の「意識」の中に建てられなければ存続できないのではないか、ということをその時考えた。スポーツにおける選手が応援者なくしては成り立たないのと同じように、建築は社会一般の人々のまなざしがなければ存在しえないのではないかと思った。また、建築的に評価の高い建築であるとか、名のある建築家の作品であるとかが、残っていく建築の条件とは必ずしも関係のない事実を知り、落胆したりした。建築設計者として、はかなさをぬぐい時間を貫く建築像を見つけられないことに、いらだちさえ感じた。

博多駅に用事があると、西日本シティーの建物が目に写る。明らかに、他の建築物との違う存在感を放っているように見える。多少、赤砂岩に色むらが出てきたかなと睨みつつ、でもこれがいいのではないかと、誰かにいいきかせるよう心中で反芻する。もちろんこの建築は、物理的な風雪以上に、用途上の存亡の危機を超えて今に存在している。時代が型押しする製法で出来た地方都市の風景の中で、この赤砂岩でできた孤高の物体が視界に入ったほんの瞬間、心がほころぶ。駅や駅前に華々しい商業空間が出現すればなお、この視覚の止まり木は心の止まり木として、ささやかで切実な働きをしているようにも感じる。そして、この止まり木はこれから先に永遠と未来へ伝えられるとも楽観視できず、明日になくなっていることも覚悟しなければならないのだろうかと、同時に無常を感じたりもする。

例えば西欧が物質的、構築的であるのに対して、日本の建築観は、行為的であり空間的である、とかつて建築批評家の浜口隆一は言った。行為的とは、例えば祀りや神事のようなもので、空間的とはそれら神事が行われている森で囲まれた境内、というふうに例えていいだろうか。私たちは元々建築を、固定的、安定的なものであるとか、外界から隔絶したものであるというふうには捉えていなかった。またモノそのものが厳然と風雪に耐えて、時代を超えていくイメージに執着せずに、伝えていくべきは場所と行為であると努めてきた。昨年(2013年)に62回目の遷宮を行い1300年以上の歴史を跨ぐ伊勢神宮がちょうどそのことを教えてくれるよい題材でもあった。

日本人としての私たちは歴史的建造物に対して、(人間に対するのと同じように)老齢に対する素朴で辞令的な敬意を表してきたが、同時に、道具として極めて冷静な取り扱いをしてきたように思う。歴史的価値に至る途中のものに対する期待がない、というかそれらを殊更養護する意思も持ちあわせることがなかった。明治期にわたしたちは西欧からその建築のなにがしかを学び入れたが、歴史を育み長く存続させていくものというあたりまで、受け入れていたかどうか。セットメニューにアフタードリンクが必要であることを想像してはいなかったかもしれない。これらの概念を遅ればせながら学び入れようとするのであれば、板につくまでは(なにごとも)理屈が必要であるかもしれない。

「なぜ保存しなければならないか」

建築が長く存するべき意義の諸説の中で、建築史家の藤森照信氏の一説があった。私達は、自らの分裂しがちな過去と現在を繋げる作業を、例えば睡眠中の夢の中で行っていて、同様に、現実の中の変わらない風景を拠り所としながら、自らの時間的な連続性を保とうとしているのではないか、という主旨のものだった。この話を聞きつけた時には、仏教思想における刹那滅を思いついたりした。昨日の自分と今日の自分は必ずしも連続していない。昨日の自分は死んでしまい、今日の自分が生まれている、という刹那滅。そして、私たちが生きるのは常住不変なものはなに一つない千変万化、無常の世界。であるからこそ、それらを繋げようという意識無意識が働く。確かに、夢に顕れる事柄には、時間と場所との間には脈絡がないことが多い。例えば個人的な経験でいうと、登場人物や出来事そのものは時に様々ではあるが、背景だけはいつも、最近15年を住み続けている家ではなく、0~15才まで過ごした六本松の家なのである。今は亡き幼少期の家がどうしてそんなに重要なのだろうと我が無意識に尋ねてみたくもなる。記憶の中で留めることのできる不変の風景、これをなんとか現実の風景の中にも(無意識的に)求めようとする習性が私達皆にある、という仮説はそれだけで面白い。

普段無意識に取り扱っている建築の数々を見つめ直すことは、我が身に黙する臓器をいたわるようなことであるかもしれない。建築一つ一つは、都市を形づくる風景として目に見えるものであるが、それとは別の次元で、寡黙に働く沈黙の「都市」臓器のようなものとして普段の私たちの心身を支えてくれているのかもしれない。そこに存するぎりぎりまで黙って働いているのだから、建っている間に凝視し、いたわり、愛情をもって接する時間を、意図的に作らねばならないことになる。最終的にはどんな建築であってもいいのかもしれないが、まずは、町にある優れた建築と言われるものから紐解くのが、やはりわかり易い。建築や都市を愛する人々が、広く社会一般の一人一人に呼びかけて、皆が建築とその文化の潜在的なサポーターであり、享受者であることを伝え、芽吹かせる動きがここに始まる。20世紀にはなかった、全ての人々を介する都市、町づくりである。福岡という具体的な場所が存続し、そこに集合的記憶を紡ぐ働きがあり続けることが、私たちにとってはすでに建築の存続だということなのかもしれない。父的都市計画から、母的都市生成へといつの間にか時代は移り変わっていて、この母的働きの独自性が、都市の独自性に繋がっていくのであれば、愉しみは一入である。

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